Bernardo,Bertolucci “1900(Novecento/Twentieth Century)” 1976

  日本人は忘れたふりをしているが、戦前日本の農村では地主‐小作関係が厳然と存在した。それはイタリアも同様だ。戦前、この階級/身分関係を、ある者は共産主義として、ある者はファシストとして打破せんとした禍々しい歴史のうねりがあった。本作は、そうした歴史を軸に、1901年に生まれた小作と地主を超えた友人関係、召使いが階級憎悪・転覆戦略の一環としてファシストに志願する様を描く。

  ベルトリッチは、明らかに共産主義に肩入れしているが、本作はその政治的主張に本領はない。主人公の地主の息子・アルフレードの柔弱さともう一人の主人公の農民で活動家・オルモの逞しい活動力の対比。これはヘーゲルの主奴論を思わせ、オルモの子どもは地主を超え、高度成長にのって中産階級の仲間入りをしたかもしれない。

 二人は、表向きは地主と活動家として敵対しながらも友情関係が成り立っている。またアルフレードが若いときに田舎地主の反発から触れる未来派などの前衛芸術運動、それを彼に吹き込むパリ帰りで遊び人の叔父、これらを体現する美しい恋人であり後の妻・アダ。これらは若旦那のひそかな愉しみであり、放蕩だといえる。地主やブルジョワ階級の成り上がりで悪趣味のファシストへの反発もよく描かれている。ファシストは後の大衆社会の成立を予感させるし、ダメな若旦那は太宰治にも似る。

 アルフレードは、オルモの影響から心情的に共産主義に肩入れするものの、父の死後すんなり地主に収まる。だが元来優柔不断で、無力な地主であるほかない。地主なのに黒シャツに襲われるオルモすら助けられない。そんなだらしなさ、ダメ男ぶりが没落しつつある地主階級を象徴するが、そのダメさがいい。もちろん妻は愛想をつかし、家を出ていく。

農村の絵画的な画面構成、美しい妻アダとそのファッション、夢見がちで儚いモリコーネの音楽も絶品。ベルトリッチは、大きな歴史を描きながらも、それに翻弄される不適応な人間や歴史に拮抗する美に惹かれているようだ。